今日は急にまた寒くなり、さっきまではなんと雪が降っていました!
最近大分暖かくなって半袖でもいいかなという日さえあったのに、また冬に逆戻りです。
寒暖差が激しいので、皆さまお体に気をつけて下さいね。
さて、本日の本題に入ります。
例えば、仕事などの場で正当な評価を得られないと感じることがありますよね。
そんな時には怒りを覚えるかもしれません。
そもそも正当な評価とは何でしょうか?
正当だと決めるのは誰でしょうか?
自分が正しく評価されていないと感じるのは、つまり自分が期待していた通りに評価されていないということですよね。
自分はもっと評価されるに値すると、「自分が」考えているということではないですか?
期待した通りの評価が得られない時、なぜ怒りが沸くのでしょう。
自分のプライドが傷つくのですよね。
そのプライドの持ち主である自分とは一体誰なんでしょうか?
〇〇という名前の人間ですか?
その人はどういう人ですか?
それは「自分はこういう人間だ」と思っている自分のイメージなのではないでしょうか?
自分のプライドが傷つくというのは、自分が信じている「自分像」が傷つけられるということですね?
では、その「自分像」は、誰もがまったく同じように見ている絶対的なものでしょうか?
自分が思っている通りの人間であると、周りの人全員が思っているでしょうか?
きっとそうではないですよね。
ということは、それは自分の考えでしかありません。
自分の考える「自分とはこういう人間だ」という自己イメージなのです。
ところで、今日は朝食に何を食べましたか?
…と急に聞かれ、脳裏に今朝食べたもののイメージが浮かびましたか?
その朝食のイメージと、自分が持っている自己イメージは、どちらもただの思考、ただの頭の中のイメージでしかありません。
エゴはその単なるイメージが傷つけられることをとても怖れています。
そして常にエゴと同一化している私たちも、そのイメージが傷つけられるのをとてもとても怖れるのです。
ここで、先日私がハイヤーセルフからもらったメッセージをシェアさせて頂きますね。
「あなたが失うのを怖れているのは、守る価値のないものばかりです」
「あなたの本質は失われたり、傷つけられたりすることは決してありません」
大事だと思っていた何かを失ったり傷つけられたりするなら、それは本当は大事なものではないのです。
それは自分の本質ではなく、ただの幻想なのです。
幻想なら失ったり傷ついたりしても、本当は痛くも痒くもないのです。
もし自分が期待通りの評価をされなかったのなら、実は自分が思っていたほど仕事ができていなかったのかもしれません。
でも仕事のできる/できないは、実はそんなに大事なことではありません。
人の価値とは、何かがうまくできることではないのです。
ポイントは、なぜそういう出来事を自分が現実に見たかということです。
正当な評価を得られないという出来事によってなぜ怒りを感じたのか…?
「評価されたい」「認められたい」「受け入れられたい」…という願いが満たされないからではないですか?
そしてその奥に潜んでいるのは「今の自分のままでは十分ではない」という信念です。
それを手放していきましょう。
その信念を持っている限り、自分が十分ではないことを現実に投影し続け、周りから認められない現実を見続けることになります。
一つの例として正当な評価を得られないというケースを使いましたが、誰にでも似たような経験はあるのではないかと思います。
どんな経験も目覚めるためのツールとして使っていくことができます。
そういう出来事を通して大事なことに気づき、要らないものを手放して自由になっていきましょう~☆
最近大分暖かくなって半袖でもいいかなという日さえあったのに、また冬に逆戻りです。
寒暖差が激しいので、皆さまお体に気をつけて下さいね。
さて、本日の本題に入ります。
例えば、仕事などの場で正当な評価を得られないと感じることがありますよね。
そんな時には怒りを覚えるかもしれません。
そもそも正当な評価とは何でしょうか?
正当だと決めるのは誰でしょうか?
自分が正しく評価されていないと感じるのは、つまり自分が期待していた通りに評価されていないということですよね。
自分はもっと評価されるに値すると、「自分が」考えているということではないですか?
期待した通りの評価が得られない時、なぜ怒りが沸くのでしょう。
自分のプライドが傷つくのですよね。
そのプライドの持ち主である自分とは一体誰なんでしょうか?
〇〇という名前の人間ですか?
その人はどういう人ですか?
それは「自分はこういう人間だ」と思っている自分のイメージなのではないでしょうか?
自分のプライドが傷つくというのは、自分が信じている「自分像」が傷つけられるということですね?
では、その「自分像」は、誰もがまったく同じように見ている絶対的なものでしょうか?
自分が思っている通りの人間であると、周りの人全員が思っているでしょうか?
きっとそうではないですよね。
ということは、それは自分の考えでしかありません。
自分の考える「自分とはこういう人間だ」という自己イメージなのです。
ところで、今日は朝食に何を食べましたか?
…と急に聞かれ、脳裏に今朝食べたもののイメージが浮かびましたか?
その朝食のイメージと、自分が持っている自己イメージは、どちらもただの思考、ただの頭の中のイメージでしかありません。
エゴはその単なるイメージが傷つけられることをとても怖れています。
そして常にエゴと同一化している私たちも、そのイメージが傷つけられるのをとてもとても怖れるのです。
ここで、先日私がハイヤーセルフからもらったメッセージをシェアさせて頂きますね。
「あなたが失うのを怖れているのは、守る価値のないものばかりです」
「あなたの本質は失われたり、傷つけられたりすることは決してありません」
大事だと思っていた何かを失ったり傷つけられたりするなら、それは本当は大事なものではないのです。
それは自分の本質ではなく、ただの幻想なのです。
幻想なら失ったり傷ついたりしても、本当は痛くも痒くもないのです。
もし自分が期待通りの評価をされなかったのなら、実は自分が思っていたほど仕事ができていなかったのかもしれません。
でも仕事のできる/できないは、実はそんなに大事なことではありません。
人の価値とは、何かがうまくできることではないのです。
ポイントは、なぜそういう出来事を自分が現実に見たかということです。
正当な評価を得られないという出来事によってなぜ怒りを感じたのか…?
「評価されたい」「認められたい」「受け入れられたい」…という願いが満たされないからではないですか?
そしてその奥に潜んでいるのは「今の自分のままでは十分ではない」という信念です。
それを手放していきましょう。
その信念を持っている限り、自分が十分ではないことを現実に投影し続け、周りから認められない現実を見続けることになります。
一つの例として正当な評価を得られないというケースを使いましたが、誰にでも似たような経験はあるのではないかと思います。
どんな経験も目覚めるためのツールとして使っていくことができます。
そういう出来事を通して大事なことに気づき、要らないものを手放して自由になっていきましょう~☆
最終更新日 : 2022-03-22